媛媛講故事―13

                         
      梁山伯と祝英台 Ⅰ             何媛媛

 

 
 梁山伯と祝英台の物語は中国四大物語の中の一つに数えられています。古くから人々に親しまれ、芝居、映画、音楽、絵画などいろいろ中国文化に強い影響を与えています。

 約千五百年前、東晋の時代、浙江省の上虞地方に祝という員外(昔の官名)の家がありました。その家には17歳になるたいへん綺麗な娘がいて、名前は祝英台といいました。祝英台は旺盛な向学心から杭州へ行って学問をしたいと願っていました。しかし、当時は「女性は無才が徳だ」といわれるような時代でしたので、女性である祝英台が家を出て、しかも男性と一緒に勉強するなどということはとても難しいことでした。

 祝英台は自分の強い希望を何とか叶えたいと思い「私は男装して行きます」と親に言いました。が、親はやはり承知してはくれませんでした。祝英台は庭から鮮やかに咲く牡丹を1本切って花瓶に挿し、親に次のように言いました。

 「この牡丹の花を見守っていてください。私が帰ってくるまで、この牡丹は鮮やかな美しさを保って咲き続けます。それは私が身を清く守っているという証です。もし私が身を守ることが出来なければ、この牡丹はきっと萎れてしまいます」

 親はその言葉を聞いて祝英台の固い決意を知り、仕方なく娘の願いを承知しました。伝説によりますと、花瓶に挿された牡丹の花は、本当に祝英台が帰ってくるまでずっと鮮やかに咲き続けていたそうです。

 祝英台は男装をし、杭州へ向いました。途中、会稽から祝英台と同じように遊学のため杭州へ向う梁山伯という青年に出会いました。二人は旧知の如く意気投合して義兄弟の契りを結び、一緒に杭州へ向かうことにしました。

 夜、旅館に泊まることになりました。しかし、寝室に寝台は一つしかありません。旅の疲れで梁山伯はすぐ寝てしまいましたが、真夜中に目を覚ますと祝英台はまだ灯火の下で本を読んでいます。

 梁山伯は

 「一日中歩き続けたのですから早く寝なさい」

 と祝英台に言いました。しかし祝英台は

 「大丈夫だ。私は寝ないつもりだ」

 と答えました。

 「どうして?」

 「寝ている間に誰かに体をぶつけられると、頭がひどく痛くなるからなのだ」

 「それなら、私は気を付けて体をぶつけない様にするさ。早く寝なさい。明日はまた旅を続けなければいけないのだよ」

 「じゃ、寝台の真ん中に水を入れた茶碗を置いて貰えるだろうか」

 「いいとも、それなら茶碗をもってくるさ」

 梁山伯は茶碗に水を入れて、床の真ん中に置きました。そこで、祝英台はやっと安心して横になりました。
「どうして服を脱ぐないのだ?」

 「や、兄貴には分からないことがあるのだ。私は幼いときから体が弱く、寒がりやで、母親は100個ものボタンがある特別な服を作ってくれた。面倒くさいから普段は脱がないのさ」

 「あ、そういうことか」と真面目な梁山伯は信じました。

 それから、梁山伯と祝英台は同じ寝室、同じ寝台で寝ましたが、梁山伯は祝英台が女であることに全く気付きませんでした。

 そして旅を一緒に続け杭州の学校に着くと二人は先生のところに挨拶に伺いました。その折の祝英台の歩き方が先生の目を惹きました。その後、祝英台が他の生徒と一緒には絶対にトイレに行かないこと、暑い季節でも薄着をしないことなど、折に触れての微妙な立ち居振る舞いから、先生は祝英台が女性だと確信し、先生はトイレ使用に当たっての次のようなルールを学生たちに言い渡しました。

 「トイレに行くときは、これからはトイレの門に板戸を立てかけ一人一人別々に行きなさい」

 学生たちは何で先生がそのようなルールを決めたのかその理由を理解できませんでした。しかし先生の話は守るしかありません。先生の配慮で祝英台はトイレの問題を解決することができました。

 梁山伯と祝英台は三年間、共に学び、お互いに労り合い、助け合い、親友としての友情をますます深めてゆきました。けれども梁山伯は祝英台が女性であることに気づくことはありませんでした。

 そうして三年経ったある日、祝英台の元に親からの手紙が届きました。話したい重要なことがあり、早く家に帰って来てほしいというのです。

 祝英台は梁山伯と離れがたくはありましたが、一方、三年間一度も親の顔を見ていませんでしたのでその手紙を読むと懐かしさで胸がいっぱいになりました。加えて子どもは父親の命令に背くことはできません。あれこれと考えた末、祝英台は帰郷することを決めました。(続く)




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